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2007年10月31日

第三章 ラグビーが教えてくれたこと その1

第三章 ラグビーが教えてくれたこと その1



私の人生とラグビーは切っても切り離せない。何事にも「一歩前へ」と挑戦する精神を
つくってくれたのがラグビーだった。

伴小学校(広島市安佐南区)を卒業した私は、父の頑張りのお陰で1949(昭和24)年
4月に私立の崇徳中学校(広島市西区)に入学させてもらえた。

私の住まい沼田から比較的近い場所にあり、それでも通学に40分余りはかかったが
伝統のある学校でもあった。

崇徳中学校は高校を併設した、中・高一貫の学園である。

同学園は、親鸞聖人の教えに則り、浄土真宗の教育を旨とする仏教色が
濃い事で世間に知られている。が、実際に入学してみると、仏事行事として
毎年4月8日のお釈迦様のお祀り、週に一度の宗教の勉強ぐらいで
何ら一般の学校と変わっている雰囲気は感じなかった。


それよりも男子校だけあって、どちらかというと質実剛健の校風が強く
勉学もさることながら、スポーツにも力が注がれており、全国大会で
何度も優勝したバレーボール部や柔道部のように広域に鳴り響いた
クラブが幾つも存在した。


その一つに、私が終生愛する事になるラグビー部との出会いがある。

私はラグビー部と出会えたことを、今でも最大の喜びと感謝の一つにおいている。

ラグビーの魅力はなんだろう。

ひと言で言えば、血が騒ぐーーこんな表現かもしれない。

一つのボールを追って敵味方が肉弾戦を展じる。
それでいて、そこには厳密に計算された技と温かいチームワークが存在する。

スポーツの原点すべてが凝縮されているのがラグビーではなかろうか。
当然のこと、崇徳中学校に進んでラグビーとであった途端に私の心は魅了されてしまった。

「よし、ラグビー部にはいろう」よこの思いのまま、何一つ躊躇うことなく青春をラグビー
に捧げるのである。

家業の酢造りの手伝い、時間が空けば伴の田舎を走り回って自然と体を鍛えていた
私にとって、ラグビーは恰好のスポーツであり、まさにわが意を得たスポーツであった。
試合開始のホイッスルから終了のオフサイドまでグランド狭しと走り回る。

マナーに則った格闘技とも言えるスポーツだけに、一試合終わるとぐったりするほど
疲労感を伴うが、それ以上の爽快感も備わっていた。

その頃の私は朝も昼もなく、ラグビー一色であった。

身長175cm、体重75kgと恵まれた体格、さらには100mを12秒で
走り抜ける脚力を生かし、私はラグビーにとっぷりと浸かった。

やがて一年の半ばにはレギュラーの座を獲得。
以後、クラブの要のポジションを幾つか任されながら、ずっと正選手の
位置が揺らぐことはなかった。

もともと当時は、ラグビーを中学や高校のクラブ活動に
取り入れているところは少なかった。

中国地方においても崇徳中学以外では数えるしかなく

限られた選手の限られたスポーツという印象であった。
そのため対戦校探しにも一苦労、県外遠征なども多く、高校時代には
天理高校などに赴くこともあった。

ところがどうであろう。昨今のラグビーは人気のスポーツの一つである。
「冬の華」とも表現され、大学の対抗試合を頂点に、冬場に大観客を
動員できる数少ないスポーツとなっている。

当時には予想も出来なかった隆盛ぶり、隔世の感を拭えない。





さて、それだけのめり込んだラグビーだけに、私は当然の如く
生涯このスポーツと付き合っていく気持ちでいた。

大学に進学しラグビー部に在籍する。その後もラグビー関係の仕事に就いて
人生を送る。それ以外には考えられないほどであった。

事実、私が高校の現役時代に明治大学の北島監督(当時)から誘われた。
崇徳高校のラグビー部監督であった中島先生が明治大学の卒業生で
北島監督と懇意にしていた関係もあったろうが、明治大学としても全国各地から
有望な選手をピックアップして進学を促す意向があったからだ。

当然のこと、私は北島監督の目にとまった。

明治大学といえば、早稲田大学と並んで学生ラグビーの頂点。
オープン攻撃の華麗な展開をする早稲田に対して、明治は「一歩前進、前に、前に」
で知られるように、ラグビーの神髄ともいえる押しのフォワードを売りにする特徴的な
ラグビーを信条とする。

地に足をつけ、がっちり組んだ強靭なスクラム。

ジリ、ジリッと相手を押し込んでいく。私が最も好きなスタイルであり、私のラグビー姿勢
そのものが、明治の校風に合致していた。

ラグビーを始めていつごろからか、いずれ明治大学に進むものとそれとなく決めていたし、
他の進路はまったく念頭になかった。北島名監督率いる明治大学には多大な魅力を感じ
ていたし、憧れてもいた。




続きは⇒http://oochikura.e-know.jp/e7668.html
  


Posted by センナリ株式会社 at 15:15Comments(0)『米の酢』物語

2007年10月30日

第二章 父の背で学ぶ その3

父の背に学ぶ その3



もう一つ、父の渡航時代である。

子どもの頃から勉強がよくできていた父は貧しさから逃れようと
わが家を飛び出し、新天地を求めて大陸に渡った。

もちろん、満足な渡航費はない。

そこで父は知己の船員に頼み込み、船底に隠れて渡米したらしい。

闇に紛れて米国に上陸した後、とにかく経歴や過去を問わない仕事を探し歩き、
当分は日がな生活を続けていた。

異国で一つの仕事に長く就いていると、どうしても前歴がうんぬんされてしまう。

仕事に慣れて賃金が改善されることはうれしいが、それはまた自らの身の危険を
まねいてしまう。

短期日の間に幾つもの仕事を転々とし、ひっそりと隠れるようにして生きて
きたという。

その中にあって、比較的長く続けた仕事が材木工場であった。

ここでは父と同じ流浪の作業員が多く、ことさら父のことを意識する空気が
なかったからである。

仕事そのものは、山に分け入っての伐採、切り出された木材の集積

それらを工場に運びこんでの製材と出荷と大きく三つに分けれるが
主に父は山に入っての伐採と運び出しが中心であった。

手慣れた監督の下、指示された木材を伐採してゆく。

どちらかというと、個人の力量に負うことが多いこの仕事は他人の干渉が少なく
また、それだけ自由でもあった。

こうして5年余り、アメリカでの仕事を終えた父は、その間に溜めた小銭を
元手に日本に帰って商売を始めようと考えた。

だが、自由の新天地アメリカに渡ったといっても、さまざまな仕事の情報が
集まる場所にいたわけではない。

いや、最も閉鎖的ない山間に入って仕事をしていたのだから、商売を始めると
いっても一体何をすればいいのか分らなかったというのが本音であろう。

帰国を決めて、心機一転の意志だけは固めていたが、では具体的に何をするか
明確な青写真は父の頭に描かれてはなかった。

だが、天の啓示か、帰国途中にたまたま知り合った人から「米酢」の話を聞き
それがわが家の家業になっていくのである。



前章でも触れたが、父至は渡ったアメリカで、米酢と出合ったわけではない。
帰国の際、まさに偶然で、その偶然を天恵とし拠り所としたのである。

今、思えば、その時の父の心境としては、どんな商売でも良かったのではないかと
思う。とにかく稼いだ元手で何かを始める。

数年間も故郷を離れ、故郷に錦を飾るまでなくても、何か旗揚げをしなければ
男がすたるとでも考えていたのかも知れない。

私が幼かった時、来る日も来る日も大地の家で造った米酢を父と配達に出かけては、
何とはなしに話を聞くうち、段々と父を理解できりようになった。渡米する前、アメリカ
での暮らし、そして帰国後ーー父の苦労が伝わってくる。

父とは、どれほど同行したことか。

配達といえば、長男だけに、いつも私が駆り出されていた。

だが、父の後姿から、輝く明るさを感じたことがない。

いつも何か背負って、その重圧に負けまいと必至で生きているように見えた。

父は、一体何が楽しみで生きてきたのだろうか。

この世に生を受けた数十年間、ただ働き通しで、一度たりとも他に心を
振り向けることをしなかった。仕事がすべてで、小遣いだって一銭たりとも使ったことがない。
自分の仕事を通して喜んでくれるお客さんに生き甲斐と喜びを見つけていたのだろう。

そういった父の背中を見続けていたからこそ、今日の私がある。



続きは⇒http://oochikura.e-know.jp/e7667.html
  


Posted by センナリ株式会社 at 17:15Comments(0)『米の酢』物語

2007年10月20日

第二章 父の背で学ぶ その2



父に学ぶ その2

創業してしばらく経つと、販路はかなり拡大した。

大地の米酢が評判になり,求める層が、広がりをみせてきたのだ。

「私のとこにも、あんたの酢を入れてえや」

父は快く引き受けた。


そうすると、製造の後、お得意様に届ける作業も増えてきた。

足回りをよくしなければならない。

ある日、わが家に真新しいバタンコが導入された。

足でキックしてスターターを始動させ、オートバイに跨った要領で
運転してゆく、ご年配には懐かしい代物である。

エンジン音がけたたましく、バタバタと音を発するところから
いつしかバタンコと命名されたものだが、当時としては
画期的な商売の足であった。


このバタンコを、駆って配達に出向く先は、加計、戸河内、安佐町などの農家。

配達先に着くとバタンコから約40キロの4斗樽を父は担いで届けていた。

同行した私はまだ幼く、到底この重さを抱えることはできない。

肩にめり込むほどの重さの樽を担いで歩く父の後ろ姿を
心を傷めながら見送っていた。

配達といえば、もっと遠方にもよく出掛けた。

沼田町伴からは2時間以上かけて山口方面にも出掛けていた。
これら遠方に行く時の楽しみは昼食であった。

母がこしらえた弁当を適当な時間と場所を見つけて開くのだが
すきっ腹には例えようもなく美味で、あれほど美味しい弁当には
もう出会えないだろう。


こういった配達時の合間や屋外での食事時に、寡黙な父が時折り口を開いた。

喋りぶりは訥々として、父らしい語り口であった。




こうして聞いた話で最も記憶しているのが二つある。


一つは、センナリという社名の由来

もう一つは、アメリカ渡航時代の苦労である。

センナリの社名は、天下人、太閤秀吉に基づく。

織田信長の家来として日吉丸、木下藤吉郎など出世の階段を上
がる度、改名していった秀吉が終生シンボルとして掲げたものが
千成瓢箪であった。

いずれ、天下を取って全国津々浦々、戦いのない平穏な社会を実現する。

物心ついて以来、絶えず戦乱の渦中にあった秀吉の側にはいつも千成瓢箪がさ
がっていた。

やがて天下人となった秀吉の生き方に共鳴していた父は、1927(昭和2)年に
酢の専業メーカーを創業する際、千成瓢箪から「センナリ」を社名として
用いることを思いついた。

社名の由来はここにあるわけだ。

合わせて千成瓢箪は今日まで会社のシンボルとして用いられている。

秀吉は国を一つに統一する天下一を標榜したが、「センナリ」は味で天下一を狙いたい。





続きは⇒http://oochikura.e-know.jp/e7664.html
  


Posted by センナリ株式会社 at 16:10Comments(0)『米の酢』物語

2007年10月19日

第二章 父の背で学ぶ その1




第2章 父の背で学ぶ

よく人の後ろ姿を見て学べという。
私もそうであった。

父の背中を見ながら、どれだけのことを学んだか計り知れない。

ひと言で、父は不撓不屈の人であった。

こうと決めたら、何があっても邁進する強い精神力
それは「米酢」造りにも現れていた。良い米酢を造るに
はどうするか、人さまに喜んでもらえるにはどうするか。

朝から晩まで、これに拘り続けていた。

最もこだわったのが、原料となる「米」であった。
素材いかんで出来上がりは随分と異なる。
酸味が濃かったり、口当たりのキレが鈍かったり
ほんの僅かな違いが結果として大きな変化をもたらせてしまう。

いつも同じ品質で同じ味を保っていくには、そしてより良い商品を
造っていくにはー父は、来る日も来る日も」これに腐心していた。

昼に作業している時、夜部屋に戻ってからも、じっと考えこんでいる
父の背中が思い出される。

良い米を手に入れるためにー父は、まず近郊の優良農家を歩き続けた。
作柄が良く、農薬などを一切使用していない自然の素材の確保であった。

幸いに、父の思いに共鳴してくれる農家が何件も現れた。

「大地さん、あんたのとこで使うていや」

心よく協力を申し出てくれた何件もの農家に支えられ、センナリの米酢は
高品質を維持し続けた。

この無農薬無添加の素材を原材料として使っていくセンナリの姿勢は
この時に始まり、今日までひとときも変わっていない。

簡単に紹介すると、センナリが造り続けている完全米酢は
米をとぎ、もろみを加え、まず酒を造る。

白米から純米酒を造り、それを静置醗酵させ、6ヶ月もかかって
やっと完全米酢となる。

100%まじりっけなしの完全米酢は、手間暇を掛けて誕生するわけだ。

通常、アルコール1リットルに対し、米が4%入っていれば「米酢」と表示できる。

他メーカーが採算性を考えて、安価でどんどん「米酢」と銘打った商品を
送りだしている時も、センナリは頑固なまでに米100%の完全米酢を造り続けていた。





ちなみに1996(平成8)年からは、さらに体に良い商品にこだわるため
材料を天然の水と有機米のみに限定。

秋田から通常市販価格の数倍もする無農薬無添加の良質の米
(有機米あきたこまち・JAS法認定)をわざわざ仕入れている。

この60キロの米を仕入れるのに支払う金額が4万円。
通常価格の約2倍に相当する今額を原材料に投下している。
原価比率にして43%、これほど原材料にかける米酢メーカー
は他にいない。


人の好みはさまざまである。

暑い、寒いなど地域性によって人の嗜好は微妙に変化する。
しかし本当に喜ばれるものとは、それらを超越したところにあらねばならない。

父は、地域によって食材が変化していくことを最も敏感に知っていた。
だからこそ手抜きはならない、こだわりを捨ててはならないと、ことあるごとに諭してくれた。



続きは⇒http://oochikura.e-know.jp/e7073.html

  


Posted by センナリ株式会社 at 17:06Comments(0)『米の酢』物語

2007年10月13日

第一章 こだわりのルーツ その2



こだわりのルーツ その2

良い米酢を作るには、良い米と水が欠かせない。

その点、郷里である沼田町(現・広島市安佐南区)は
恵まれた環境にあった。

温暖な気候で生育した稲穂はふんだんにあったし、水といえば
太田川の源となる清流が絶え間なく流れている。

いわば父の周りには米酢造りに適した環境(良質の米と水)が自から整
っていたのである。

こうして創業された「センナリ」だが、住時の資料は少ない。
将来を見越して創立経緯を記したものなど、ほとんどない。

日々の暮らしに追われている父の頭には後年、創業時を回顧するなど
念頭になかったからだろう。また、私自身(克伸)も幼かったため、創業時の
記憶は僅かである。

当時は家族の誰もが前を見ることで精一杯。
一日を終えるとそれだけで疲労困憊。

今日一日の出来事、昨日あったことなど過去を振り返る余裕が
なかったのが実情でもあった。


センナリがどのような過去を経て今日に至っているのか。
それは、今や私の記憶がすべてであるといってよい。

当時に思いを馳せると、それでも断片的に色々な場面が浮かんでくる。
だが、真っ先に蘇る創業時の光景は父と母の労苦である。

父も母も随分と辛苦しながら家業を支えてきた。
朝早くから、夜遅くまで働きづくめで、時には諌めあいをしながら働いていた。
その原因は決まって母のことだった。

綺麗好きで几帳面な母の手は遅かった。

仕事が丁寧な分、仕事が捗らないことがある。

それが父の癪にさわった。昔は米酢を造るのに、温室で麹を
造る作業が欠かせない。
これを「ムロ」という。この作業の段取りに手間取ることがあり、つい父は
いわずもがなの口を母に被せた。普段、二人の間に瑣末が生じ
ると言えば、このことが大半だった。かといって父ばかりを責められるものでもない。

父は、傍目から見ても痛いほどに体を酷使して働いていた。
すぐさま思いだすのが、父の肩の瘤である。重い荷物を担ぎ続ける父の肩には
いつからかポコッと拳大の瘤が膨らんでいた。

瘤ができるのも当然である。

父は、米酢造りのために大きな一斗樽を毎日毎日担いで階段を昇り降り
しなければならなかったのである。

当時のことだから、何をするにも人の労力である。

現在のように工場が機械化されるのはずっと後になってから。
当時は作業のすべてを人の力に頼らねばならなかった。


中でも元酢に5割ほど水が入った一斗樽の重さは並大抵ではない。

父の肩に担がれた樽は、父が動く度にジャブンと音を立てたし、木製のハシゴを
移動する度、その重さでミシミシと軋みを立てた。
大変な重労働であった。

幼い私、すぐの弟、とにかく手が空いている者はできる限り手伝ったが
到底父のようにはいかない。難儀を要する重労働の大半は父に委ねられていて
父はいつの日も額からポタポタと汗を垂らし顔を黒くしていた。

日がな、言葉少なに米酢造りに励む父、作業の間、笑った顔を見たこともない。


しかし、父の目は輝き、いつも前を見ていた。そんな父に、私たち幼い子供たちの
働きは、どれほど役立ったであろうか。


それはともかく、我が家で造り始めた「米酢」は実に評判がよかった。造り始めて
早々に近隣に名が響くようになった。


「大地のとこの酢は、美味しうてええ」心を込めたわが家の米酢はどの家庭でも
人気を集めた。仕上がる頃には毎日20人余りが列をなし、今や遅しと待っている。





父、母、そして私たち家族一丸となって造った米酢を待ちわびている人たちがいる。
私は、それらの人を見るにつけ、晴れがましい気分となった。

「お客さんの信頼を絶対に裏切ってはいかん」

父と、母が何度も口にした言葉だった。

お客さんがあってこそ、センナリがある。

お客さんのいない商品など、なんの価値もない。

ごくごく当たり前の事が、幼い私にとって強烈な言葉であり、新鮮であった。

お客さんの信頼ーということで、忘れられない場面がある。
当時のことだから、衛生面は決して褒められたものではない。密封、滅菌された
工場にほど遠く、また、品質管理の検査が行政から口やかましく言われもしなか
醸造醗酵させた「米酢」を一升瓶に詰め、コルクで栓をする。

その間に品質検査やチェックは行われない。

これはウチだけではない。当時は、どこも完璧にはほど遠い衛生状態だった。
だが、ウチはこれを気持ちで補った。

特に母がそうであった。


几帳面な母は、お客さんにお渡しする一升瓶の洗浄を
毎夜遅くまで丁寧に続けていた。
寝る間を惜しんでーーそれはもう、そこまでしなくてもというぐらいであった。

見かねた父は、「お前、そんなにしてたら体を壊すぞ」と何度も言ったものだが、父
の言葉に頷くだけの母の手が休むことはなかった。
子どもの私の目にも母の几帳面さ、清潔さはいたく記憶に残っている。
これもお客さんあってということに人一倍心を砕いていたからだろう。

家内工業で創業されたセンナリだけに、最大の売り物といえば、商品はもとより
「真心」でもあった。

お客さんの信頼を裏切ってはならない、お客さんに信頼される
には目に見えないところでも真心を尽くし、決して手を抜いてはならない。

それはやがて、かけがえのない信頼に繋がる。

真摯に働く父の姿勢、いかなる場面でも手抜きはしない母の心。
双方共に形は違えど「真心」であった。

父と母、二人の奥深い気持ちが「大地の米酢」の源である。父によって創業し、母に
よって支えられたセンナリの米酢、この源流はやがて大海をめざそうとしていた。



つづきは⇒http://oochikura.e-know.jp/e7070.html

  


Posted by センナリ株式会社 at 11:45Comments(0)『米の酢』物語

2007年10月12日

第一章 こだわりのルーツ その1



第一章 こだわりのルーツ

現在のセンナリの基盤を築いたのは、父、大地至である。

父によって魂である「米酢」の製造がわが家にもたらされ
以後今日に至るまで生業として営み続けられている。

父から私(克伸)へ、そして私の息子たち、長男克史(現専務・46歳)、
次男克也(現常務・43歳)へとバトンは三代目へ移りつつあるが、
どれほどの経緯を経ようが父の功績をないがしろにすることはできない。

それはセンナリの根幹をなすルーツであり、私たちの今を作っていただ
いたのも父 至がいたからである。


そこで、まず、わが家のルーツを簡単に紹介する。

とりあえず祖父の代から始めることとしよう。

石屋を営んでいた祖父辰次は、長男らしく、おっとりとした性格であった。

仕事と家族を応分に愛し、毎日をつつがなく暮らしているという人物
であった。

一方、祖父辰次に嫁いだ祖母ヨシは大変な負けず嫌いであったと
聞いている。

明治女性の気骨をふんだんに備えた女性で、曲がったことは嫌い、
一端こうと決めたら是が非でもやり通す。

何事につけて頑張り屋で、自分で納得するまでは諦めない。
そんな強い女性であった。

この祖母ヨシの性格を最も色濃く受け継いだのが、私の父至であった。

父は20代の後半に貧しかったわが家を飛び出し、単身アメリカへ渡った。
多分、広島の片田舎で生涯を閉じる事がやるせなかったのだと思う。

しかし、思いと現実はなかなかマッチしない。半ば夢破れた恰好で広島
に戻ってきたのが、父が35歳になった時、おそらくやさまざまな経験と
苦労を重ねたに違いない。





その父がアメリカからの帰国途中に出合ったのが「米酢」であった。


父の話によると、たまさか会った浜さん(四国出身)とゆう人とあれこれ
話をするうちに、どういう加減か「米酢」に関する話に及んだという。

多分、世間話しの延長線上で登場したはずだが、アメリカで大きな成果
を挙げれなかった父の五感を強く刺激するものがあった。「米酢」−これは
商売のヒントではないだろうか。父の体に震えが走った。

父は浜さんに熱心に問いかけた。

米酢とは一体どのようなものなのか、どのような味をして、どのような時に
使うものなのか。

また、どうしたら造れるのか。

父の問いに対して浜さんは丁寧に答えてくれたという。
もちろん、どうしてこんなに米酢に興味を抱くのか不思議に思っただろうが
父の熱意に押されたようだ。

こうして父は、浜さんから「米酢」に関する知識をできうる限り授けてもらった。

聞けばどれも新鮮な話である。

そして話を聞くにつれ、これは将来多くの家庭に受け入れられるに
違いないーと確信。

大きな刺激を受けた父は「米酢」との出会いを大切にし、家業に
取り入れることを決意した。

米酢と出合った父は、広島に戻るや教わった知識を元に早速に製造を開始
した。

米酢造りに関してまったくの素人だったにもかかわらず、祖母ヨシから
受け継いだ負けず嫌いな性格が上手く作用。

加えて寸暇を惜しまぬ生来の探究心から、父の手で造られた米酢は
瞬く間に立派な商品として評価されるようになっていった。




続きは http://oochikura.e-know.jp/e6622.html  


Posted by センナリ株式会社 at 11:45Comments(0)『米の酢』物語

2007年10月11日

『米酢』物語 プロローグ



プロローグ

美味、天下一を追い求めて!


「センナリの米酢は美味しい」「とても健康にいい」
全国各所からセンナリの「米酢」に届く熱い声。

素材にこだわり、昔ながらの製法を守り、わが子のように
慈しんで育てた商品への評価の声は正直言ってうれしい。

また「こんな商品を作ってほしい」という声を戴くと、期待に
応えようとスタッフ一同張り切って開発に取り組む。

こうして生まれたヒット商品は多数。

商品価格そのものは、既存の同種商品と比べて決して
安いわけではない。

センナリは創業以来、"体にいい本物の美味”の追求を
企業理念とし、これ一筋で天下を目指してきた。

美味しいとは何か、体にいいとは何か、センナリは
ずっとこれに精根を傾けてきたのだ。

地道ではあるが、創業当初よりのこの一貫した企業姿勢は、
次第に多くの人から指示を受けるようになっていった。

企業規模はまだまだであるが、マス化を進める大企業には
ないセンナリの「姿勢」と「こだわり」。

これらが評価され、2003(平成15)年には米酢分野の
高い技術力が、日本経済新聞により「中国地方の日本一企業」
として選ばれた。

今後もセンナリが今日まで大切にしてきた企業使命を頑なに
守っていこうと思う。

センナリって、どんな経緯を辿ってきた会社なの?






昨今、こんな質問をまま受けるようになった。

ありがたいことに、生産者、消費者双方からの質問である。

ならばと、当社の概略を簡単な一つの物語にまとめることを
思いついた。

題して「美味天下一、大地の”米酢”の物語」である。

センナリにずっとかかわってきた二代目の私こと大地克伸が
わが社の創業から現在に至る経緯を簡単ながら紹介して
いこうという試みである。

大地は、わが家の姓であり、また、自然の大地にも一脈
通じている。

加えて大地の恵みをお客様に還元してきたわが社の姿勢でもある。

全編を流れるものは、私自身の自分史であり回顧録でもあるが、
センナリ酢の誕生から今日に至るまで、さらに今後わが社がどの
ような企業姿勢で進もうとしているかを記したつもりである。

これを通じて、センナリのことを多少なりともご理解いただければ
幸いである。

続きは http://oochikura.e-know.jp/e6620.html  


Posted by センナリ株式会社 at 11:43Comments(0)『米の酢』物語